※記事の途中からネタバレしてます。
ドラクエの映画化
「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」を8/2公開初日レイトショーで観た。
ラストに賛否両論の展開が待ち構えている、ということは聞いていたけど、その上でもかなり予想外、斜め上過ぎる展開だった。
「そのシーン」の始まった直後は「制作やっちまったな。アウトだアウト」と目を覆いたくなった。
しかし、シーンが続くにつれ制作者の意図もなんとなくわかっていく。
自分はそれをドラクエファン――もっと突き詰めればゲームファンの愛に賭けた挑戦的な仕掛けと解釈した。
冒頭あらすじ
「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」では、1992年に発売されたゲーム「ドラゴンクエスⅤ 天空の花嫁」を下敷きにしたストーリーが描かれる。
ゲマ率いる魔物にさらわれた母を取り返すため、主人公リュカとその父パパスは旅を続けていた。
しかし道中、パパスはリュカを人質に取られ、抵抗出来ぬまま非業の死を遂げてしまう。
囚われたリュカはゲマの奴隷として10年もの歳月を過ごし、とうとうスキを見つけて脱出する。
故郷に戻ったリュカは、パパスの隠し部屋で自身の使命を知り、長い冒険の旅に出る。
ネタバレ感想 ゲーム愛に溢れた映画
まず「ドラゴンクエスト」が3DCGで完璧に再現されていた。
興奮した。
モンスターを倒したらなぜか金が落ちる、というドラクエに限らないゲームならではの仕様まで完全に映像化してくれている。
要所要所で流れる数々のおなじみBGM、効果音も良い。
序曲はやっぱり高まる。
ドット文字、ドット絵から映画が始まるというのも深い原作愛を感じた。
自分はドラクエの生粋のファンというわけではないけど(プレイしたのはメインシリーズだと4,5,8のみ)、映画が「ゲームとしての原作」を尊重してくれていることにワクワクした。
戦闘も格好いい。
特に終盤の全員集合大合戦はずっと観てたいくらいだった。
脚本について
原作「ドラゴンクエスト5」にあった印象的なエピソードは概ね採用されてる印象だった。
原作付きの映画というのは、どうしても100分の脚本にまとめるためエピソードを削ぎ落とす必要があり、たいていの場合ファンからの批判はつきものだ。
その意味では「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」はまんべんなくゲーム中のエピソードが取り上げられており、その点からの批判は少ないと思う。
が、逆に言うと100分ぎゅうぎゅうにエピソードを詰め込んだ影響で、物語は散漫になっている。
どのくらいぎゅうぎゅうかと言うと、主人公リュカの誕生から母の誘拐、パパスとの旅、フローラとの出会い、ビアンカとの冒険、ヘンリー王子との出会い、ゲレゲレとの出会い、パパスの「ぬわあ」、リュカの奴隷堕ち10年生活、までを冒頭の約10分で一気に描いている。
描くというかほとんどダイジェスト映像で、ファンは喜べるけど原作を知らない人たちはついていけんのかと心配になった。
同じ冒頭10分間で、一組の男女の幼少期の出会いから結婚、死別までを見事にまとめたピクサーの「カールじいさんの空飛ぶ家」と比べるとどうしても見劣りしてしまう。
が、これにはきちんと理由があった。
冒頭の省略されっぷりもまた、この映画の仕掛けの伏線、その一つだったのだ。
その後もたくさんのエピソードが足早に続く。
流れてくる皿は必ず取らなきゃいけないルールの回転寿司みたいに、じっくりと味わうことが出来ない。
「パパス死んだ! 悲しい! はい次! 主人公石化した! ショック! はい次!」みたいな。
シーンはぎゅうぎゅうな一方で、会話には無駄が多いと感じた。
言わなくても伝わること、省略しても問題ないセリフをいちいち言わせている。
ノリがなんとなく今どきなのもドラクエと合わない。
一つ一つのセリフをブラッシュアップすればその分の尺が空いたんじゃないか。
花嫁選びが一番気になってた
この映画が発表された時、真っ先に気になったのがフローラとビアンカ、映画の花嫁はどっちになるのか、ということだった。
ゲームだったらプレイヤーそれぞれが答えを出すけど(ビアンカ)、映画はそういうわけにも行かない。
下手したら炎上案件だ。
フローラ派に喧嘩を売るつもりなんじゃと心配だったけど、結果うまい着地点だった。
リュカは自分の本心を覗ける薬を飲み、真に愛する女性と結婚する。
しかし。
「ユア・ストーリー」という仕掛け
この映画には物語を普通には終わらせない、大きな仕掛けがあった。
それが明かされるのが、いよいよ空から魔界の王ミルドラースが姿を表そうというタイミング。
魔界の門を閉じるべく、リュカの息子の勇者が天空の剣を暗雲に投げ込むと、突然、主人公以外の時の流れが止まる。
勇者も妻も魔物も、誰一人として動かなくなる。
「ん? ミルドラースのそういう能力?」と思った。
なんかよーわからんフリーザみたいなやつが現れる。
まだ事態が飲み込めない。
いくら影が薄いラスボスとは言え、ミルドラースってこんな姿だったっけ? と混乱。
そこで、彼の正体と共に、ドラクエの世界の正体が明かされる。
彼は天才ハッカーによって送り込まれたウィルスで、ドラクエの世界は仮想現実に再現されたゲームの世界だったのだ。
と、クライマックスで突如、メタフィクションネタがぶち込まれる。
伏線はあった。
冒頭でリュカの幼少期がぎゅうぎゅうにまとめられたのも、プレイヤーが事前に「子供時代」を「スキップ」に設定したから。
最初の花嫁にフローラを選んだのも、事前に「じこあんじ」プログラムでそう設定しておいたから。「本心を覗ける薬」を飲むことでそのプログラムが解除される際、世界観から浮いた電脳世界が現れたのも伏線の一つ。
他にもいろいろ。
この映画自体が、数多いるドラクエプレイヤーの一人のプレイングに過ぎなかったことがわかる。
ウィルスはこんな感じの説教をする。
「いつまでもゲームなんてしてないで、おとなになれよ」
映画の観客にまで冷や水を浴びせるようなことを言い始める。
レイトショーで座席は半分ほどだったけど、この時の劇場の空気感はやばかった。
「シーン」じゃなくて「ツーン」としてた。
リュカのドラクエ愛
厳密にはリュカじゃなくてゲームをプレイする「誰か」なんだけど。
ドラクエを昔から愛してきた、多くのファンにも当てはまるであろう彼の回想が差し込まれる。
「ゲームの体験だって大切な人生の一部だ」とリュカは反論。
実はアンチウィルスだったスラリン(おっさん)から受け取った剣で、ウィルスに止めを刺し、プログラムの崩壊を食い止める。
「ドラゴンクエスト ユアストーリー」は、ミルドラースから世界の危機を救うストーリーではなく、ある意味でもっと壮大な、「ゲームファンに対する否定」と戦うストーリーだった。
だからユアストーリー、あなたの物語。
その仕掛けのために犠牲になったもの
……ということを解釈した上で、やっぱり思うのは、
そんな仕掛けいらなかったなぁ。
すごく挑戦的な仕掛けだと思う。
琴線に触れたファンもいたかもしれない。
だけどこの仕掛けをやるためだけに、脚本は大きな影響を受けた。
特に幼少期の重要なシーンがすべてスキップされてしまったのが残念。
「ドラクエ5」を一本の映画として成立させるためには、幼少期の出会いや因縁は最重要のはずだ。
そこからすべてが始まっていくのに、それを端折ってしまっては「ドラクエ5」である意味もなくなる。
この仕掛け自体、100分の尺に物語を押し込めるために用意されたものにも思えた。
「ユアストーリー」というテーマには共感出来たものの、全体的にダイジェスト映像という印象が強く、映画としての見方がしづらかった。
月並みだけど、結果より過程を大事にしてほしかった。
まとめ それでもやっぱりドラクエファンなら楽しめる
確かにオチは衝撃的だ。
賛否両論が湧くのもわかる。
しかし、割合で見るとメタフィクション部分なんてラストの数分。
「実は仮想現実の世界である」という伏線は散りばめられているにせよ、まず見抜ける人はいなかっただろう。
作品の大部分は純粋なドラゴンクエストの映像化なのだ。
ミルドラースが見たかったという悔いはあるにせよ、ファンが期待したものはしっかり描かれていたと思う。
これを機にドラクエもう一回やってみようかな。